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和田守弘/メディアの使徒の疾走
-あるいは物質、行為、映像のはざまで―

​谷 新

はじめに
​1970年代について、このところ相次いで書く機会があったが、和田守弘も時制的にはこの時代に出自をもつ作家といってよいだろう。ひと口に70年代作家といっても、そのとらえかた、切り口はさまざまであり、そこに特定の基準や考え方が存在しているわけではない。そういった意味では、和田もひとつの角度や考え方によって単純にくくることのできない、広範な問題意識をもったアーティストであったといえよう。

 和田が美術の世界に登場してきた時代、それは表現への飢餓的状況が存在していたにもかかわらず、その飢えをうまく表現できない時代とここでとりあえず切っておくとすれば、およそその直前の時代、強いていえば「大阪万博」(1970年)までに象徴される時代との根源的なズレをまずこの時代の基本的なスタンスとして査定しておくことができる。万博のモダニズム路線に真っ向から対置される「もの派」の動向もこの時代のものだが、それらの対立構造が担った意味とも和田らの世代はズレを生じさせる。またこうした時代状況/動向も、それまでの常識ではすぐさま次の時代へとバトンタッチを急がれるほど急務だったにもかかわらず、そのアヴァンギャルディズムの構造そのものが破綻した時代に奇しくも遭遇してしまったことが和田らの世代の特徴として指摘できるだろう。それはこの世代の強いていえば不幸であり、逆にだからこそ他の時代に類例のない根源を問う表現を志向/試行しえたとさえいうことが可能である。根源あるいはラディカリズムは、まさにこの時代を表象してあまりある見地になるが、和田もまぎれもなくこの時代に立って、思う存分疾駆した作家として数えることができるだろう。

 とりわけ和田の疾駆は、まさに“表現の飢え”のような状態であった。何をそれほどまでに急がなければならなかったのだろうか。ウィトゲンシュタイン(注1)をつかい、発表の物理的頻度はもとより、“歩く哲学書”のように、状況に蔓延した思想/哲学を自在に引用、作品に取り込みながら、そこで表現しようとしていたものは何だったのだろうか。それも論理学や数学だけではない。現象学、実存哲学、言語学、心理学、仏教哲学、小説ではヌーヴォー・ロマンのアラン・ロブ=グリエ、さらには日本近代の絵画への関心から果ては万葉集にいたるまで、これほど哲学、思想、文学でものを考えた作家もいない。それはときに生硬なメッセージあるいは観客を誘導するインストラクション(指示)として作品に取り込まれた。また、それらが表現の一角を占めることで他のメディア(伝達機構)と合わされ、新たな違いを現出し、さらにその重層化の果てに目論んだ一種のコミュニケーション論は、来るべき映像時代の表現開発の気運ともリンクして、あたかも状況を疾走しているような印象を与え続けた、といえるだろう。


物質の提示と観客の参入
​直前の世代と比較すれば和田守弘は「ポストもの派」の作家ということになる。だがあえてそう決めつける必要もまたない。こうした比較の場合、比較する根拠はおおむね“ポスト”の対象になる動向に対して、その影響下から発する表現、対象となる動向への批判的見地から発する表現、単純にその動向の後にくる表現動向、といった観点に立っているが、和田に関しては、いずれの観点からであろうと、そこにどうしても脈絡をつけなければならない必然性が乏しい。それはひとつにはまったく新しい表現性を提出しているかもしれないという予感を抱かせた点であり、また他方、和田の時代までの表現動向を、その立脚点もろとも認識的変換を果たすべく到来したかもしれないという、表現の思念上のフィールドの広さを和田の表現が持ち合わせたからである。しかし、それは後述するように、生涯にわたって貫かれたとは言い切れない恨みがあるのもまた事実である。

 この時代、一般に作家は早熟である。学生の頃から発表を始めるのは少しもめずらしくはない。和田も同様だった。初期からの年表だと1969年からすでにグループ展、その後並行して各種のコンクール展に応募あるいは個展を開催するようになっているが、70年代に入り、活字媒体などでその発表を確認できるのは71年以降である。当時、私もすでに気になる展覧会や画廊での個展などには足を運んでいるが、71年段階での和田の作品は実見していない。実見するようになるのは72年、すなわち美術出版社の芸術評論募集の選に通ってからである。

 その71年の個展(田村画廊)は、東野芳明の記事「脈絡なく行き当たりばったりに」(注2)で確認できる。それを引用してみよう。

この学生の作家の作品は、いくつかのコンクールでも見たが、セメント、銅のマチエールの強い面の上に、CEMENT、COPPERという言葉を刻み込んで、言葉と物質とを重ね合わせながら、その間の冷たい距離を感じさせた。田村画廊では、銅のチューブを放置したままだったが、丁度、夕立で雷鳴と稲光りがあり、銅が鈍く光ったのが美しかった。

この画廊の存在そのものが今では神話めいたものになってしまうが、和田が発表した当 時は表通りに面してあり、歩道とはガラスのドアで仕切られていた。東野が書いている「雷 鳴と稲光り」が直接に作品に反映されるのは、そうした画廊の事情によっている。のみな らず、この画廊は当時一種の“解放区”のような感さえあり、そこから4、5分離れたと きわ画廊と並んで、ふつうは考えられない多くの実験的な発表がなされた。このガラス戸を効果的に生かした例では山中信夫の《DIFFUSION DE RIVIERE》(72年9月17日、昼夜、注3)があり、それはピンホール・カメラの作品に展開していく直前の仕事となる。和田の作品が偶然外界の稲光りを反映したとすれば、山中の作品は逆に画廊奥に置かれたプロジェクターからこのガラス戸を通して外界に多摩川の画像を放映し続けた。昼間はほとんどわからないが夜には外の通りを走る車などにその川面の映像が映されるという仕組みである。いわばそれは“移動するスクリーン”への放映であり、またこの試みの機構からピンホール・カメラが発想されてくるのはそう難しいことではない。和田は山中のこのころの発表に刺激を受けており、それは当時の私への手紙で確認できる。

 ところで和田はこの個展で、いくつかの水際(みぎわ)だった観点を導入していたように思える。 あえて同時代の「もの派」との違いでいえば、①自然素材は使われていない(銅という工 業生産品を使用)、②銅のチューブが複数使われているが、床に枕を置いてその上に同一方 向にただ置いている(一本だけは画廊奥の壁に斜めに立てかけられている)、③床には定尺 の銅板がアトランダムに敷かれており、観客はそのスペースに入ることができる、④言葉 が使われている、などの特徴をもっている。この時代、まだ「もの派」という呼称はなく、 東野芳明の呼び方でいえば「ボソット」(注4)といった形容になる。巧まずしてただ物体が 置いてあるだけ、といった印象をあらわしている。

 ただ、この作品がそうであってなお「もの派」の志向性との比較で、異質なあらわれを 感じさせるのは、ひとつには“作品の中への観客の参入”であり、他方、素材がある時間 的経過の後に変質/変貌していくという観点の導入である。それまで作品なるものが、ど のような古い材質によって形成されようが、見る側にとっては常に新しいものの現前とし て、言い換えれば時間意識の超越としてあらわれていたとすれば、和田は作品そのものが、 時間経過とともに物理的にも、また知覚的印象からも変質していくものだということを、 ここでさりげなく示しているように思われる。事実、この時代においては、さまざまな「も の派」批判とその乗り越えの表現行為のなかで、そこに時間意識がどのような角度からで あれ組み込まれることは枚挙にいとまがないほど活発である。「日常性」といったこの時代 のキーワードになる観点からも時間意識に結びつく必然性は認められるし、表現行為があ る特権的な時空のなかでのみ生産されるという“近代主義的生産行為”の対極にある志向 としても、ここでいう時間意識は関係していくだろう。

 ところで和田が銅を表現するのにもっとも特徴づけられる現象として、この素材の腐蝕 に目をつけていたのは、かなり早い。この個展ですでに用いられていたとの指摘もある。(注 5)それは父親の実家が寺院(香川県観音寺)であることによって、知覚的に体質化していると想像することも可能である。

 いずれにせよ、自然の事物の作品への参入や、表現形式からの多様な逸脱のなかにあっ て、物質の質変が、表現を生み出すための技術的プロセスから脱して、表現性そのものと してあらわれようとしているひとつの契機をここに見ることはそう難しくはないだろう。 直前の動向のなかではジルベルト・ゾリオやカール・アンドレらの表現に類例を見出せる のみであり、まだかなり限定的であると言わざるをえない。(注6)
 



映像による知覚、認識作業の実験 
この71年の仕事と、翌年すなわち72年以後の発表では、大きく内容が異なってくる。 その違いは、ヴィデオというメディアへの参入であり、それを自身の表現構造のなかに取 り込んださまざまな試行にみることができる。和田はこのメディアに当初から積極的に関 わり、またそれを通じて新しい表現の地平を切り開こうとした作家として記憶されるだろ う。この時代、美術家たちの多くが写真、8ミリ、16ミリのフィルム、そしてヴィデオ を導入もしくはそれらのメディアそのものを主な表現手段として採用している例は頻繁に 見られるが、和田はふつう写真もしくはフィルムからヴィデオという導入の流れとは逆に 最初からヴィデオを主目的的に自身の表現に採用している。  72年、ヴィデオ表現にとっては画期的な事象が起きる。ヴィデオを用いる作家たちが グループ的な活動を開始したのである。それを日本における“ヴィデオ元年”とするには いささかのとまどいもあるが、映像表現ジャンルの新興メディアとしてその存在を鼓舞し 始めた象徴的な年という言い方は外れてはいないだろう。それに与したかわなかのぶひろ は当時の事情を次のように述べている。

 

1972年春、銀座・ソニービルで開催された「ビデオコミュニケーション“Do it yourself kit”の頃を思い出そうとしている。けれども、もうずいぶん前のことなので、具体的な日どりや時間といった細目については、あまり記憶に残っていない。当時の手帳によると2月24日から3月6日にかけて連日開催され、3月4日にはソニービルの8階にあるホールでシンポジウムが行なわれたと記してある。(中略)さて、11日間という長期にわたって開催されたこのビデオ・ショーは、わが国では初めての大規模なビデオ集合活動だった。これ以前にビデオによる作品を手がけていた、作家の数は五本の指に満たず、これ以前にビデオによる作品の発表が行なわれた例は3本の指に満たないといっても過言でないほど、当時のビデオはアーチストにとってまだ未知のメディアだったのだ。(注7)

この企画では、カナダからやってきた映像作家マイケル・ゴールドバーグが持参したヴ ィデオ・テープとすでに日本で制作していた作家たちのヴィデオの放映が一堂に会してな された。ここに和田は《禅問答》という作品を発表している。かわなかによれば、このと き日本側からは他にかわなかのほか宮井陸郎、萩原朔美、中谷芙二子、松本俊夫、山口勝 弘、小林はくどうらが参加した。また、これを機に「ビデオひろば」というヴィデオ作家 を中心とするグループが誕生し、さまざまなヴィデオ表現が試みられることになる。

 和田に限定していえば同年秋、和田はヴィデオを用いた個展(「遥かモゥビ・ディクの 白い巨体を求め・・・」、1972年9月4日-10日、田村画廊、注8)を開くが、このメディアに 限定されたものではなかった。先に述べた前年の銅のチューブと銅板の散在の発表の展開 として見ると、銅板は20日間、塩水に漬けられて緑青化され、それらで画廊の壁全面を 覆った。和田は明らかに、このときを契機に銅に緑青をふかせた表現を作品設営のための ツールの意味も含めて積極的に使うようになる。またCOPPER、SALT、WATERの文字 も記された。1980年代以後のレリーフ、インスタレーションにもそれらの物質と言 葉の布置は継続されることになる。

 加えてヴィデオによる表現である。これもかなり手の込んだ、説明を要する内容だが、 総じてイヴェントの記録のイメージがこのときは強い。ヴィデオの内容は①海岸に引いた30メートルの線に沿って40リットルのガソリンを撒き火をつける、②10リットルの真水を入れたバケツに40キログラムの塩を溶かした塩水をつくり30メーターのラインに沿って海に撒く、③海岸の30メートルのラインに沿って60キログラムの塩を直に撒く、④海に沿って500メートルのビニールロープを張り、それを回収する、⑤水面の一点に向かって石を投げ、その波紋が消えないうちに次の石を投げる行為を継続する、といったものである(いずれも15分ずつに編集)。またエンドレステープによって、収録された波の音が常時流され、画廊での展示作業や銅の緑青化を収録し、会期最終日に放映された。

 この発表における和田の意向を「<ひろば>のドキュメント」(注9)から拾うと「コンセプトによるコンセプトの空洞化をはかり、原点としての言語をうるためのメディアとしてのヴィデオを使う」という考えがみられる。かなりコンセプチュアルであり、それをどのような方法論でなそうとしていたかなどについては触れられていない。内容に立ち入る前にまず断わっておけば、この発表では、作品の時間は大きくふたつに分かれる。ひとつはイヴェントの記録としてのそれであり、他は発表時から会期中にわたって経過する時間である。詳しくは、それらがそれぞれにおいて編集されるというヴィデオのメディア特性を合わせもつ(制作途上において“編集”という外化された視点が介入する)。

 そうしたメディア特性をベースに和田がここで行なおうとしていたことは何だったのだろうか。「コンセプトによってコンセプトの空洞化をはか」るという考えをこのイヴェント(行為)に求めるならば、和田が海岸で行なったそれらは、それぞれがシンボリックに特徴づけられる行為として言及されるべきものではなく、むしろ次々と行為が繰り返されることで個々の行為の意味が消去されていくような一種の空洞化、言い換えればあったにしてもわずかな“差違”が知覚的に確認できればよいほどの行為として位置づけられる。しかし海岸にガソリンを撒き火をつけるといった行為が、差違化のためのみ選択されたということに異論が生じるとすれば、その行為をドキュメントの記録としてではなく、行為と行為を分節化し、一定時間というフレーム(枠組み)に鋳込みなおして形式的統一をはかることで別な観点を挿入したかったと言い換えてもよい。確かにバンクーバーのヴィデオ・グループにこの種の表現があり、和田がそれを見ていたにしても、和田の狙いは別にあったことが知られるだろう。(注10) それはイヴェントの記録ではなく、認識論/コミュニケーション論を展開するための序曲あるいは結果的には表現のある不可能性に向かっての問いとして考えるメディア試行であったともいえるだろう。

 さらにこの際のイヴェントに分け入ってみると、行為があらかじめ規定された長さにもとづき、同一時間をフレームに行なわれたことに共通点があるとすれば、それぞれの行為が結果させたものもまた共通の考えに結びついていくように思われる。それはひと口に「ヴァニシング・ポイント(焦点=消失点)」ということである。和田は結果的にはやはり画家である。それはメディアが映像であろうとレリーフや絵画であろうと帰するところに大差はないように思われる。ただ、それが各メディアに特有の技術体系として還元されなかったがゆえに、あるいはそうであるからこそもっと広範なメディア全域におよぶかのような表現概念のいわば超越性を生み出したといえるのかも知れない。

 ヴァニシング・ポイントを出したついでに、さらにディテールに踏み込んでおくと、海岸でのイヴェントは、視覚的現象としてはいずれも“無(空)に還元される”コンセプトから発している。ガソリンは一定時間の後に燃え尽き、真水に溶かした塩も、海岸に撒かれた塩も行為の結果は存在の形跡をとどめないまま砂浜や海と一体化する。一定距離を計測するように張り渡されたビニールロープも回収されることで行為の前段の状態に戻る。言い換えれば、それは一種の“物質存在に対する疑義”であるとも解釈できなくはない。
 ヴァニシング・ポイントは、ここでは事象として物質的現象としてとらえられているが、文字通り二次元表象における透視図法をそのままヴィデオのシステムとモニターのフレームに重ね合わせたような試みもある。《認知構造No.Ⅳ(フィルムによる認知構造)》(1975年、真木画廊、注11)がそれだが、歩道橋の上に設置した固定カメラによって眼下の車道を俯瞰し、車の流れを追った作品である。和田はこの作品で二様のヴァニシング・ポイントを現象させ、それらの視覚的差違を認識させようとしている。ひとつは通常の視覚のように焦点に向かってしだいに消滅し、逆にそこ(無=焦点)から現れ手前方向に迫ってくる車という存在である。存在の消滅と誕生を、遠近法を使ってもっとも効果的にあらわしたともいえるこの試みは、実はもっと重要なコンセプトを宿していたとも解釈できる。固定カメラによって同一アングルでただ外界を記録していただけではなく、焦点に向かって退いていく対象(車)を、画面上で同一の大きさになるようにクローズアップしつつ再撮影することで、ふつうの撮影によって生まれたパースペクティヴとは異なる、もうひとつのパースペクティヴを生み出すことに“可能性としては”向かっていたということである。その方法によってクローズアップされる対象は車なら車という形象を無くし、やがて周囲の風景に溶け込んで一体化、消滅するだろう(光学的な粒子どうしが車と背景という視覚的境界を超えて一体化する)。それは先の海岸でのイヴェントが示唆する物質的現象としてのヴァニシング・ポイントのみならず、絵画の外延としてのヴィデオの参照、さらに加えれば同時並行的に行なわれていたさまざまなシリーズ表現によっても検証される認識論的志向あるいはコミュニケーション論にも発展させて考えることができるだろう。

 もっともこのときの和田の試みは、前年発表された山口勝弘の《VANISHING LINE》(「VIDEO KYOTO 1974 KYOTO=TOKYO JOINT SHOW」、1974年4月28日-5月11日、ギャラリー・シグナム、京都)が参考になっているということもできる。山口の作品は画面中央で二分割されるヴァニシング・ポイントに向かって、人も車も飲み込まれて消滅するイメージを2台のモニターで同時放映した。このときは和田は出品していないが、この時代、京都で行なわれていたアンデパンダン、ビエンナーレと同様、関東、関西の作家による表現の交流が極めて盛んであり、映像表現でも同様であったという裏づけにこの企画もなるだろう。ちなみにここに出品された映像作品は、今ではほとんど省みられなくなっているが、多様な試みがヴィデオなど新興メディアを使ってあらわされており、それは決して無視されるべき内容ではない。たとえば木下佳通代は、ものが空間に積み上げられ、一杯になった後それらをひとつひとつ取り去っていくという行為の記録、河口龍夫+村岡三郎+植松奎二は、「見ること」をテーマに「ぬる」、「うめる」、「水に投げ込む」、「やぶる」、「はる」といった切り口で、テレビ・モニターに対して暴力的な関わりかたも含めての行為を記録した。こうした「ビデオ・ハプニング」(東野芳明、注12)といった観点からの見方ができる表現や、木下のような、存在の積算とその無への還元をヴィデオという時間表現であらわすコンセプチュアルな仕事が見られる一方、病気の母親とその家庭というプライベートな対象を撮り続けた道下匡子や、いち早くジェンダーの問題に取り組み始めていた出光真子らの発表が行なわれており表現内容もバラエティーに富んでいる。そして出品作家もPARTⅠ、PARTⅡで20名にも及んでいる。
 



自己言及と他者、共同主観的存在構造への認識論的展開
 1970年代の和田守弘の仕事をおよそ列記すると、概念的なシリーズ・タイトルによって占められていることがわかる。個展でないものはこのかぎりではないが、彼の発表はタイトルが示唆する考えを、多様な表現媒体を用いて“実践化”した方法論というとらえかたになろう。自身の考えからすれば、それはコンセプトの“演繹”であり“敷衍化”であるともいえる。主だったものを挙げれば、70年代初頭には「自然における黙示録」(71-72年、*これらのシリーズに付した年号は最初にあらわれ集中的に展開された期間である)があり、以後「認識からの方法序説」(73-74年)、「アプリカシオン」(74-75年)、「認知構造」(74-75年)、「表述」(75-76年)、[表基](76-77年)と展開されていく。これらのシリーズのなかには「認知構造」のように1980年代に入ってさらにシリーズ作を重ねるものもあれば、「表基」のように、80年代に「表基体」というレリーフ作品に発展していくものもある。
 このうち《認識からの方法序説No.Ⅰ SELF MUSICAL》(発表当時の題名は《認識に於ける方法序説No.Ⅰ SELF MUSICAL》、73年4月23日-29日、田村画郎)は、先に述べた海岸でのイヴェントにもとづく発表の翌年に行なわれたものだが、先のふたつの個展とはかなり内容が異なる。イヴェントでも固定カメラで現象を追いかけたものでもなく、概していえば、ヴィデオなどメディアを駆使した知覚、認識、言語の導入による表現論の展開である。

 この発表では、対象は自分自身に向かっている。自己を認識する方法論を示そうとしていると考えてもよい。自己を、同一性を保った複数化された対象(それら対象は“コレハワタシデス”という半袖シャツを着ている)とし、それぞれに対応した複数のテープレコーダーからは三者三様のメッセージが流れる、といった内容である。当時の私のメモを見ると、ここには明らかにウィトゲンシュタインが導入されている。

 和田はここで、自己をどのような水準や切り口であれ、同一だとみなす観点にまず疑問を突きつけている。言い換えれば“ワタシ”は一元化不可能な、あたかもコピーがコピーを生んでいくような“コピー人間”でしかない。しかし“コレハワタシデス”という、自己同一性を標榜するようなメッセージで自らを名指し、恒常的に同一の自己存在を維持しているかのようにこの社会に生息している。あるいはもっと進めていえば、“コレハワタシデス”と自らを名指さないかぎりアイデンティティーを保てないほどに崩壊してしまった今日の人間存在の危機を訴えかけているというようにも受け止められよう。
 だが和田は、視覚的、言語的に以上のような今日におけるアイデンティティーの構造を暴く一方で、それを聴覚を通じてもあらわそうとする。複数のテープレコーダーを用い、同時に異なったメッセージを流し続けるという方法がそれである。言い換えればそれは、“複数の自己”がそれぞれ異なったメッセージを同時に投げかけているという“分裂した自己存在(アイデンティティー)”を表明していることになる。それは先のメッセージになぞらえれば“ワタシハワタシデアッテワタシデハナイ”あるいは複雑に多様化した社会のなかで、いまある局面/対象と向き合っている“ワタシ”は、次の局面/対象に向かっては、いまこのメッセージを発している“ワタシ”ではない、という外延化が図れるような事態を示している。
 和田のこうした“自己言及”の方向は、転じて人間相互あるいはその集合体としての社会をベースにした「共同主観」をモティーフとするのにもはやいくばくの時間もかからない。それは《認識からの方法序説No.Ⅲ》(《認識からの方法序説》は以下《方法序説》と略す。73年10月22日-28日、田村画廊)と、その翌日から行われた鈴木清企画《共同主観的存在構造》(10月29日-11月3日、同)への展開で明らかである。
 このうち前者は、8人によって構成された和田の「個展」である。このうち5人が地図上の任意の場所を選んでそこに行き、そこに一番近い電話ボックスに入って外を見る。そのときカメラのファインダーを通して外を見るという決まりがある。それを自身の視界として設定し、できるだけ一般的イメージをもたない対象を言葉に置き換え、電話によってその情報を和田に伝える。それを聞いて和田がその内容を絵にする。さらに描かれた和田の絵は、この作業に加わらなかった別な人間に言葉に置き換えてもらう、といった内容である。(注13) 和田が関心をもっていたロブ=グリエあるいは榎倉康二も参照したル・クレジオらの対象表記、叙述の方法を念頭に置いたかも知れないが、はたしてこの試みは、和田の狙うようなものであったかどうか。
 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』にもとづくとするならば、いわば人間の論理的認識の無矛盾性にこそ帰着すべき問題が、ここでは逆に亀裂を深め、共通認識にもとづく表象がなされなければならないのに、結果は決してそうはなっていかない。すなわち緻密な決めごとをつくって伝達の基本として、それにもとづくコミュニケーションの制度や方式をつくっても、逆にそれは矛盾律を深めていくだけだという逆証明のようにこの発表は見えてしまう。翌日からの鈴木清企画の発表もこれに類する。「鈴木清」は架空の人格である。和田もそのメンバーだが、全体の構成メンバーは明らかにされていない。電話帳でもっとも多いとしてこの名前は選択されたという。こんなところに使われて本当の鈴木清さんもたまったものではないが、和田の当時のいくつかの企画は、この鈴木清がプロデュースしたというかたちをとっている。
 ところで73年の鈴木清企画《共同主観的存在構造》展は、グループのメンバーが自分のもっている本を画廊に展示し、共通する本をピックアップするといった内容だったが、全員に共通する書物はせいぜい4部くらいとほとんど重なっていなかったのである。どのような書物を持ち込むかの条件は不明だが、ふだん頻繁に討論を重ねているはずのメンバーの所有する書物の共通性からは少ないという印象がある。が、逆によく4冊も共通した書物をもっていたとも考えることができよう。
 翌年すなわち74年の《アプリカシオンNo.Ⅰ》(発表当時はシリーズNo.は記されていない。3月25日-31日、田村画郎)で、和田と鈴木清の《共同主観的存在構造》が同一会期、同一場で開催された。(注14) この発表では和田の個人的表現と鈴木清というグループの共同主観をもっとクロスさせた試みがあらわれ、そのため会期と発表場を同じくした。そこでは和田は自身の表現を発表する一方、共同主観の代名詞である鈴木清に「和田守弘氏の個展は存在せず」(注15)と言わせ、近代個人主義を基本にした個展という発表形式をわざわざ否定している。それはちょうど前年の《方法序説No.Ⅰ》において、一方で自己同一性を表現しつつ、他方、異なるメッセージによるその分断を演出するといった考え方を思わせる。しかし、他者性を抱え込んでいたにしても和田守弘として発表している事実は変わらず、和田のシリーズもその後ナンバーを重ねて試みられている点をみれば、共同主観的存在構造が廣松渉のような主体論、実践論とどれだけ切り結んだものであったかは疑問である。それは哲学、思潮をベースにしたインデックスあるいはイニシャルといったとらえかたに還元されてしまう危険を合わせもっていよう。
 74年、鈴木清の「個展」のチラシに用いられたメッセージは、そのタイトルからすでに明らかなように、廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』という書物からの抜粋であった。当時私はこの本をまだ読んでいなかったが、フェノメナル(現象)な世界を、音を聞くという人間の知覚に関して分析したくだりが引用されていた。それはおおよそ、音は私という主体に属するものではなく、たとえば時計の音を聞くように、音を発する何らかの客体に関わり、さらには言語表記で文化的共通性が得られるように他者に属するということも認識できるといった内容である。しかし、実際にこの発表で行なわれた中身は、決して共同主観性という問題意識を突き詰めたものにはなっていないという感想を展評のなかで私は語っている。(注16)


美術と映像表現の境界の模索からインスタレーションへ
和田の表現は、ヴィデオというメディアを駆使しながら、いわゆる映像作家と異なり、常にそれを相対化された関係のなかに置いている。それは「美術」へのこだわりからも逆にいえることである。別な見方でいえば和田は、出自の時代の多様化し既存の価値観が崩壊しかかった美術のなかで、なお新興メディアを導入しつつそれを乗り越えようとする志向を推進力にしながら、新しい美術表現の形式を終始模索し続けていたといえるかも知れない。そのひとつの展開は、ヴィデオも表現媒体のひとつとするインスタレーション化(装置化)によって果たされるだろう。たとえばすでにナムジュン・パイクは同時代にそうしたインスタレーション化に走っているし、そのテクノロジカルな像化の技術と、モニターそのものを物的対象として構築あるいは散在させていく方向とはまったく異質だが、和田の1970年代後期の発表の多くもこの表現形態抜きには語ることができない。さらにこの方向は、80年代から90年代にかけてのレリーフ表現の時代(たとえば「表基体」シリーズなど)を経て、90年代中期のレリーフ、ヴィデオなど映像を合わせたおおがかりなインスタレーションへと展開されていくことになる。
 他方、70年代の日本には、そうしたヴィデオ・インスタレーションといった様式概念でくくることは適当ではない表現状況がはびこっていたことも事実である。それは和田が行なっていたような知覚、認識の構造すなわち表現の内容面に関係するものであり、表現の性格からいうならば行為に劇性を伴わない、ひと口に「日常性」に還元されていくような志向である。
  和田の表現にも類例を求めることができるが、もっとディテールに踏み込めば、表現や存在(対象)を“消去”していく表現現象である。それは先述のヴィデオによる複数の作家の試みに見られるように盛んであり、他方、もっとも基本的な行為(「表現」というよりはそれ以前の「表述」、「表基」と和田がタイトルに用いたようにいうべきかも知れない)に還元されてあらわされるような表現である。さらにいえばそれは支持体へのもっとも基本的な関わりである、点、線による表現であり、形態的にはいわゆる幾何的な基本図形により、また言語ほかのコミュニケーション媒体を用いた方法でも、何の脚色もなく極めて叙述的/記述的表現のことを指している。こうした傾向が、この時代の美術表現の有力な一角を形成していたことは改めて指摘するまでもない。かたや寺山修司率いる「天井桟敷」のような、むしろそのような日常性に挑戦状を叩きつけるような小劇団活動も活発であったにもかかわらず(寺山は美術にも関心を寄せ、和田らヴィデオ作家のワークショップも開催している。和田が出品したのは74-75年、注17)、美術の現実はそのような状況であった。
 和田のそうした基本的な描写法は、先に記したように他者の発する言葉を図式化したり、自らヴィデオを見ながら目の前の紙に線を引く作業をまたヴィデオに撮影して視覚とそれにもとづく実際の描写のズレを感得させる試みに通じていく(《アプリカシオンNo.Ⅱ》、第11回日本国際美術展出品、1974年、注18)。そうして和田があらわしたかったのは次のような姿勢にもとづくものである。このことはこれまで触れてきた和田の表現に通底する志向性であるといってもよい。

 


ビデオについてパフォーマンスも、ライブとしてのビデオもみせるものではなく、見ることであろうと思います。小生出来る限りビデオを日常の中におき、日常をくりかえし検証し、そこからこぼれおちるカス(・・)をみさだめていこうと思っております。あえて作品と呼べるならば発表された作品よりもそのはざまからおこりうるインデックスの方がより多くなるという事は、幸なのか不幸なのか? ジョン・ケージがジョーンズの作品に対して述べた文「・・・誰かが何かをしたという知識がなぜほかの人の判断を左右するのか。何かを見ている人間はなぜ、見るという自分自身の行為に徹することが出来ないのか。いわゆる芸術がすでに、その中に言語を含んでいるのに、なぜ言語が必要なのか、と?」(傍点:和田、注19)

 

 

《遥かモゥビ・ディクの白い巨体を求め・・・》のイヴェントに見られる私の解釈は この文面にも由来している。それぞれ行なわれたイヴェントの中身もさることながら、そ れらの時空間による形式的同一化をはかり、日常的/平準的な行為の質に還元してなおそ こから漏れでてくる意味や感覚とは何か。それはすでに自明であり、自己と他者、社会の うちに定着している揺るがしがたい知識や認識をもう一度解体して再構築させようとする 考え方でもあれば、ウィトゲンシュタインの論理学を参照しながら、論理や認識の矛盾律 を徹底して剥ぎ取り、ピュアなコミュニケーションの関係を形成するという思いとも重な ってこよう。それはまた別な語り方でいえば「パロールをも含めてランガージュを一度解 体し不可視な状況から可視な状況へと移行させ、その可視な状況から、言葉の不透明性を 排除し、視えてくる状況体を透視するという行為の循環作業を行なわなければならない事 (後略)」(注20)という記述にもうかがえることである。また、ジョン・ケージのジョーン ズに触れた部分は、《方法序説No.Ⅰ》で問題にした意向とつながってくるだろう。
 それに関して、いわば和田の表現や考え方に反映されている自己への他者性の介入、あ るいは自己を考えるうえで他者性を媒介にして思考する方式は、その典型的な例として平 賀源内をモティーフにした論述にうかがえる。(注20) 源内の描いた油彩画とされる《西 洋婦人像》(1770年頃、注21)は、藤田嗣治も研究していたとされる作品だが、この婦人像の 微笑みの意味の解明に取り組み、興味深い言説を引き出している。それは廣松渉の共同主 観的存在構造にも関係することだが、自己と対象の関係に踏み込んで、和田は源内を鏡に、 あるいは源内を語ることを通して自分自身を注釈している。ここではヴィデオに関しても 明解なその導入意図が示されているが、源内のあらゆることに関心のフィールドを広げて いったその生き方に自分と同値の価値観を見出そうとしている。たとえばそれは次のよう なくだりにあらわれている。

 

 

源内にとっては、自己を正確に形成できる唯一の方法は、文学だけでも絵画だけでもなく、それらを含めたありとあらゆるものを援用するそのフィールドのリアルタイムにおける行動と実践、いいかえるならば、パフォーマンスすることによって形成される時間と空間こそがそのため重要であった。社会、経済、を組み込むほどに壮大なパフォーマンスによる横断性こそが唯一明確な自画像を形成すると信じた。(注22)

源内への言及に反映された和田の思いがどれだけ実現されたかは確かではないが、こう した言説や他者の作品に関する優れた解説に見られる観点と自身の作品が、必ずしも同様 であったとは考えにくい側面が70年代後期以降の、後世的判断ではインスタレーション とくくり直される装置化していく表現に垣間見られることは私としては残念である。

 先に美術へのこだわりについて述べたが、和田はヴィデオと物質を備えた美術表現との 関係において、それらを“即物的”に認識している点も見られる。廣松渉を借りればそれ は「唯物論(ただものろん)」だが、映像の走査線のイメージを抽出し、それを物質による透明性の高い媒 体に置き換え、その奥の壁を銅板のレリーフで覆う、といった表現である。その走査線は 細い銅線を規則正しく面のように張りめぐらす方法により、また壁の銅板は、先に触れた “消去”に関連させていえば、細かいタッチの描線(ハッチングに類する)を繰り返すよ うにして表現されたものである。走査線が映像による表現を成立させるうえで重要なこと はいうまでもないが、物質への造形的イメージに準拠したその置換の方法には簡単には同意できないものがある。こうした表現は、たしかに映像とはまた異なる立体/装置芸術の おもしろさをそれなりに醸しだすが、映像を援用しながらあれだけ鋭い表現を提供し続け た作家の表現としては、どう考えてももの足りないし、あのウィトゲンシュタインの研ぎ 澄まされた論及に比すればあまりに過剰すぎる物質/映像/装置によって、そのコンセプ トは別な何かに向かっていったようにも感じられよう。もっとその先の展開を考えつつひ とつの表現の休止となるような、源内論を借りれば思考/思想のパフォーマティヴな表現 をあえて客体化させてとどめ置いたような表現に感じられてしまうのである。



しかし、以上のような1970年代末から90年代にかけての和田守弘の表現の展開に関しての注釈は、「唯物論(ただものろん)」と簡単に切ってしまえるほど浅いものではないことはもちろんである。先に他の作家に関する作品評価でも和田は優れた見解を示していたと書いたが、原口典之について仏教哲学を背景に書いた次のコメントは傾聴に値するだろう。

東洋の水墨画には、円と云う一つの表象によって、モデリングを行いながら、円が、円にして円にあらずと註した作品がある。(原文改行)なぜ、円にして円にあらずかと云うならば、描かれた円は、描象する人間、筆、墨汁、和紙との関係項に依拠して、顕在化されたものであり、東洋に於ける空の表現作業の所産であるからだ。(後略)(注23)

ここでは和田は「空」を仏教哲学の「中道」で考えている。それは「有に偏せず、空に 偏せぬこと」(広辞苑)ということであり、有と無の境界領域で考えているということである。 さらにそれは和田の解釈では「存在と無を相補的に循環させようとする」(注24)パフォー マティヴ(遂行的)なありようとも関係するものである。あるいは原口の作品に引っ掛け て、物質存在とその写像の関係を「ものに対して無と空の白い波動に震えている」(注25) といった見方に的確にあらわれているといえるだろう。

 こうした発言を思うとき、最初のほうで書いた“コンセプトによるコンセプトの空洞化” といった自己言及化、および他者、社会への関係の敷衍化としての共同主観とはまた異な る、もっと丁寧な考え方をしていた点にも触れておかなくてはならないだろう。たとえば 和田は自己言及の対象を平賀源内を媒介しつつ語ることを通じ、また先の原口論に出てく る、還元主義的ではない「描象」という考え方にもとづく描法や空間の世界に踏み込むこ とで、自身の作品の展開の可能性について考えようとしている。コンセプチュアルで還元 主義的でありすぎることの表象の危機を感じたのかも知れない。それは東洋回帰といった 言葉で単純に切れるようなものではなく、むしろ初期の手紙に見られるような「発表され た作品よりもそのはざまからおこりうるインデックスの方がより多くなる」ということ、 言い換えれば作品をつくればつくるほど、また新たな、克服しなければならない空白が生 まれるという考え方に通じていく。和田はこのことを所有論でも語っているが、前述の鈴 木清の「共同主観的存在構造」に見られる共通して所有する本の少なさともオーヴァーラ ップさせて考えることができそうである。(注26)

 さらにいえばそれは高松次郎の優れた見解である「不在性論」を思わせずにはおかない。 (注27) 高松はそれを欲望と充足の関係律で書いているが、満たされたとたんにまた新 たな欲望が生まれるように、永久に終りのない、安定することから限りなく遠ざけられた境界領域に高松も立たされていたことをそれはものがたるだろう。和田がスタンスをおいた境界領域すなわち「存在」と「無(空)」という関係律に立つ概念および表現の策定領域も、それと同じように決して定着することのない、永久に待ち続けなければならない表象そのものの“飢餓の表象”としてあらわれ続けたというべきかも知れないのである。

(美術評論家)
 

 

*この評論は「和田守弘作品集」に掲載するため2008年9月に執筆したものです。


[注]
1. 和田は「ヴィトゲンシュタイン」と表記しているが、近年の一般的表記に従い、「ウィトゲンシュタイン」と表記する。なお、和田が作品に引用した「論理哲学論考」の引用は、「像」に関係する箇所が多いが、和田が作品で引用したメッセージは「映像」と表現されているところもある。それはもともと出典がそうであったということもできるが、和田が必要な箇所をそのように言い換えている可能性もある。今日の翻訳では「映像」とした場合、意味が限定されるということで、「像」と表記している場合が多い。たとえば大修館書店の『ウィトゲンシュタイン全集』(奥雅博訳)では、次のような注が付されている。「『像』は、Bild,Pictureの訳語。“Bild”という表現を選んだことについて、ウィトゲンシュタインは後年得意気に語っている。(『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』)。趣旨は、“Bild”が一方では画家が描く絵の意味を継承しつつ、他方“Abbildung”(写像)という数学者の用いる意味も兼ね備えているという具合に、極めて広範な意味を一語に統一した語だ、ということにある。従って訳語も「絵」「映像」は避け、「像」を選んだ次第である。」、第1巻所収、p.374

2. 「1972年美術年鑑」、『美術手帖』1972年1月号増刊

3. 作家コメント、『美術手帖』、1972年11月号、pp.328-329 『山中信夫全作品』、栃木県立美術館、1987年、p.57

4. 東野芳明がコミッショナーの第6回パリ・ビエンナーレはグループによる参加が企画され、そこに日本からは高松次郎、関根伸夫、田中信太郎、成田克彦の4人がグループとして出品した。そのグループ名が東野による「ボソット」(4つのボソット/4Bossoto)。参考:嘉野ミサワ「第六回パリ・ビエンナーレ─グループ制作の可能性」、『美術手帖』、1970年1月号、pp.184-193

5. 山本秀夫「作家論 和田守弘」、『アプロ』第2号、美学出版、1997年11月、p.114

6. 第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)への出品作家のうち、カール・アンドレは《錆の庭園》を出品している。ジルベルト・ゾリオにも鉛や銅に硫酸、塩酸をかけて錆させた作品(1968年)があるが、このときは出品されていない。参考:『美術手帖』1970年7月号

7. かわなかのぶひろ「菜の花畑の中で、日本最初のビデオ・グループが誕生しようとしていた」、『ビデオ SALON』No.1、1980年11月号、玄光社、pp142-143

8. 『美術手帖』、1972年11月号、p328

9. 中谷芙二子、山口勝弘「<ひろば>のドキュメント」、『季刊フィルム』、フィルムアート社、1972年、pp.16-17

10.注7と同。かわなかによると、「イメージバンクというバンクーバーのビデオ・グループが手がけた『火と鏡のイヴェント』は、海岸で行なわれたイヴェント・アートをぶっきらぼうなカメラワークで捉えたもの」とある。p.143

11.西嶋憲生「映像によって表現された美術思考」、『月刊イメージフォーラム』、ダゲレオ出版、1988年8月、pp.26-27

12.東野芳明「トウキョウ・ビエンナーレを見て」、毎日新聞、1974年5月24日付夕刊

13.『美術手帖』、1974年1月号、pp233-234

14.『美術手帖』1974年6月号、pp.226-229

15.このメッセージは平井亮一氏の指摘による。注14と同。p.227

16.注14と同。p.228

17.「寺山修司 劇場美術館 1935~2008」展では、天井桟敷でのこの種の動向はカヴァーしていないが、寺山の映像作品などで同時代の映像が鑑賞できるように企画されていた。2008年9月13日-10月19日、郡山市立美術館

18.注12と同。

19.私信、1974年1月24日付

20.『美術手帖』、1974年4月号、p.312

21.林洋子著『藤田嗣治 作品をひらく』にこのことが触れられている。pp.387-389名古屋大学出版会、2008年

22.「源内ノート」、『象』4号、エディション象、1984年3月、p.68

23.「ものに対する無と空の白い波動に震える写像に関する白書」、『真木通信』No.5、田村・真木画廊

24.注23と同。

25.注23と同。

26.和田は所有と知識量の概念を関係させて次のように書いている。「一個の自然的かつ人工的に生産された所有物を巨視的、あるいは微視的に、所有という概念を抽出しようとすればする程、その証左の為の知識量は膨大の一途をたどる。或は、その為の情報量は、わたしたちの常識を遥かに突き破る。がしかし、そういう状況帯であればある程、所有という概念は稀薄化する。」(「序章」、『美術情宣』、第4号、季刊美術情宣編集委員会、1975年5月、p.84)

27.高松次郎「世界拡大計画─不在性についての試論(概説)」、『デザイン批評』No.3、風土社、1967年6月、pp.60-67

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